昭和五十年十月十七日 御理解 第七十二節 「人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」



人に軽う見られると言うか、こんな不愉快な事はないと思うですね、またそれと反対に丁重に扱われる丁重にされるとやっぱり気分が良いですね、ですから愈々私共は人を軽う見てはならん、ためには本当の事がわかる、それは人間は皆神の氏子じゃと言うところを分からして貰うて、神様の氏子、器量が良いの衣装が良いのと言うて、軽く見たり重く見たりするような事であってはならない、同時に軽う見たら不愉快であり丁重に扱われたら、気分が良いのですから愈々本気で丁重に一切を。
これは先日もこれは御理解にもありましたように、これは人間だけではありません、事柄でも物でもやはり神様のお働きと思うから、丁重にしなければおられませんし神様の御物と思うから、やっぱりそれをおし頂かねばなりません、ましてや人間、氏子とこうおっしゃられる、私共が天地金乃神様の言うなら別け霊、分身所謂神の氏子として頂けるようになった時に、それを丁重に頂き丁重にあつかわなければ居られなくなってくるわけです。まずだから信心がわからなければならないと言うわけです。
今朝神前でお礼申さして貰いよりましたら、わらびを頂きました山に出来るわらび、どう言う事だろうかと思もわして頂きよりましたら、それに仮名使いをするようにですね、そのわらびに、和楽美と言う事を頂きました、私は平和の和、楽、合楽の楽、美は美しい和楽美所謂わらびであります、こう言う心の状態になられたら、どんなに楽しい事だろうかと思わして貰うた、心が和らいでおる同時に有難いなあ勿体ないなあ、とそれこそ極楽におるような心持ちでおられる、心が和んでおるね、そう言う心の状態を愈々美しいと言うことになると思うです。
そこで私達信心の目指しと言うのが言うなら、和楽美を目指す、和楽美を目指すと言う事 自分の心が穏やかであるとき喜び一杯の時には何を見ても有難い、一寸した事を聞いたり、一寸したものを見たりでもう心が変わる、心が穏やかでないと言うような事ではない、それは自分の心の内に喜びを感じておるときです、まあ例えて言うなら人から軽う見られても、それを不愉快な思いではない、おかげが頂かれるそう言う時に和楽美の心でおられる、そう言う時に心の美しいと言うか、状態であろうとこう思うのであります。
もう一寸どうか言われたら顔色が変わる、一寸もう何かあったらプリッとすると言うようなものではなくて、どんな場合であってもそう言う和楽美の状態が頂かれる、そう言う心で祈らせて貰う時に私は本当のおかげが頂かれると思うです。
私は今日この七十二節を人間を軽う見なと言うところを、おかげを軽う見なと言う風に頂きたい、ね、だからおかげを軽く見たら言わばおかげはなし、より有難いおかげになって来ないと言う風に聞いて貰いたい、おかげを軽く見ると言う事は同じおかげを頂きましてもね、甲の人は只おかげを頂いたと口では言いますばってん、真からは思って居ないいや、おかげをおかげとすら感じて居ないと言う人すらある。
それを例えばこの人はもうそれこそ、広大千万のおかげとして有難く思う、それはおかげをおかげと知らないから、そう言う事になるのです、おかげをおかげとわからして貰うから心の中は私は和楽美のおかげになると思うです。やはりおかげの実感なんです、ああおかげ頂いておるなと、そこから湧いてくる喜びの心がまあそう言うならば、和楽美の心と言う事になるとじゃないでしょうか。
昨日一昨日、富久信会に毎月神戸からお参りして来る加西さんと言う方がある。
久留米の佐多さんの奥さんの妹の御主人です、もう相当いろんな事業を手広くやって工場を持っておられるんです、がそれが最近左舞いになってまあもうどうにも手がつけられないように、なってから御神縁を頂いてそれこそもう本当に 驚するようなおかげを日々頂き続けておられる方です。
今日なんかもう毎日のように電話が掛かって来る、とう言う事かと言うともういつも金銭の事です、手形の事です、けれども今日ばっかりは投げなければ仕方がないと言うような電話であった、けれどもね前の日に例えばおかげを受けておるそのおかげは不思議不思議なこう言うおかげを頂きましたといつも言うのです、ところが今日だけはいけませんと言うような電話です、もう本当に大変なジュツない事でございました、そう言う訳ですから毎月月参りをして来るにしましても、本当に旅費がないと言う事すらあるのです、それでもやはり続けて来ておるのです。
今度の十五日も丁度十六日大祭の日が、大きな手形があってこれはどうにも仕様がない、仕様がないから放っておるような気持ちで、十五日の富久信会にはおかげ頂けたけれども、明くる朝は大祭だけれども早く帰らせてもらわねばならんと思うておかげを頂いた。昨日の朝丁度私のところへ、帰らせて頂くからと挨拶に見えよるのにパッタリ廊下で会った、でそう言われるから今日の大祭を置いて行くもんがあるもんかい、家の事はほうたらかしときなさい、とにかく御大祭を頂いて帰ったら良いがと、まあ言うなら気が気じゃないでしょうけれども、大祭を頂く事になった、御大祭が済んだらもうもう早く帰らなければと言う事になったね。
昨日だけでも何回も電話が掛かって来た、お願いします、いやもう駄目です、駄目ですと言うわけなんです、けれども時間ギリギリまで願を捨ててはならん、思いを捨ててはならん丁度、昨日大祭の説教中にまた電話が掛かって来た、姉さんの佐多さんに電話が掛かってきた、もうどうにもこうにもならん事になって来た、主人も未だ帰って来ないし、どんなになっているのだろうかと言う事だった、その時に丁度私のお説教の中ばに加西さんの話しをしておる時であった、だから妹さんの名前を言うて、一寸ほら聞きなさいて、今親先生のお説教があっている、丁度あなた方の事ば言いよんなさるよと、受話器をこちらの方に向けてこけんも間違いのない神様だから、心配しなさんな度胸を決めなさいと言って電話を切った。
それからまた電話がかかって来た、愈々時間ギリギで駄目だと言うわけです、それは私の方え掛かって来た、もうお父さんも汽車の中だろうもう帰りますよね、それであなた一人でもうどうにもできないだろうけれども、もう一心にお縋りしろと言う事でした、それから御大祭、御直会の時間になって、私は御直会を先生方に一遍りまわって、それから関係教会の方達に一遍りまわらして頂いて、御結界に就いた。
それでかってあんな事はなかったです、そこんところに又電話がかかってきた、本当に間違いのないですね、はい大坪ですよと言うたらその返事がない、電話の向こうで泣いとるらしいのですもう嗚咽しながら、何いいよるか分からん、先生おかげ頂きましたと言うのです、もう思いもかけない、思いもかけないところから振り込みのおかげを頂いたと言うて、その銀行から通知を頂いたと言うて、後は泣くばかりです電話の向こうで、佐多さん裏で御用を頂いておられましたから、すぐ呼んで今こげんして、加西さんから電話が掛かって来たよと、それこそ佐多さんも涙を流される程、やはり神様のお働きの間違いなさに恐れい入る、おかげを頂いたと言う事ではなくて、神様の日頃頂いておる間違いのなさと、同時にです、神様の間違いない働きを、また再認識を言葉では可笑しいでしょうけれどももうそれを愈々確かなものにしていっておる。
間違いのない働きを受けるそれ自体が、有難いと言う佐多さんの涙だったと思います、
また例えばこう言うおかげ話しを皆様に聞いて頂くと、合楽の場合はその場合であっても一分一里間違いのない働きの中に、痛い事があったら痒い事があったら足りない事があったり、腹の立ったりする事があるのです。
そこで私は今日思うのですけれどもね、そう言う間違いのない働きの中にある事をですね、なら有難い事だなあと、合楽に御縁を頂いて、合楽の親先生の祈りの中にある事をです、どれ程有難く思うておるかと言う事でございます、それは只自分の都合の良くなった時だけ有難いと言って、都合の悪ければおかげじゃないと思うです、お願いしとったばってんおかげ頂ききらじゃったと言うて不足を言うような程度のこともあろう。
私は今日和楽美を頂いた時にです、直感したのはある教会が火事にあって全焼された、その時に時の教監をしとられたなんとかと言う先生がその教会の先生に電報を打たれた、 山やけてまた萌えいずるわらびかな、とこれは俳句でしょう。
句を電文にして先生に電報を打たれた、この電報に依って大変な感動を受け大変な元気が出て、それこそ焼け太りをされたと言う話しがあるのです、山やけてまた萌え出ずる、わらびかな。山がやけてからかえってわらびが生えたと言うのです。ですから今言うならば山焼けてと言う事であっても、言うならば一切を灰にしてしもうたと言う場合であっても 神様の広大なおかげを、おかげを分からせて頂くと言う心こそ、真の和楽美だと思うのです、和楽美、自分の都合の良い時だけが和楽美であってはつまらん、ね、それと反対の事であっても反って元気がでる、神様の御真意、御深慮を思うたらじっとしてはおられない、泣かずにおられない、有難さの涙に はせて頂く様な信心を頂いた、それこそがおかげをおかげとわかった、最高のおかげの実感を思うです、また事実そうなのです。
おかげを軽う見な、おかげを軽う見たらおかげはなし、そこで私がねいつも思うのですけれども、家族が勢をそろえての信心になって、家族中の者がおかげをおかげと分からせて貰い、わからせてもらって家族中で喜べる、おかげを頂かなければ本当のおかげにはならんと思うのです。
主人が一生懸命信心をさせて貰って、勿体ないおかげを頂いて有難いと思うか、そりゃあなたが一生懸命働きなさるけんで、儲かるとは当たりまえたいと言うたらどうなりますかね、まあ嫁が一生懸命信心させて頂いて、あれもおかげこれもおかげと喜びよるとに、親父がお前は馬鹿じゃないか、何でんかんでんおかげと言うて、言うたらどうなりますかおかげが一切くずれてしまうです。
もう信心する者は何でんかんでんおかげと言うて、と信心のない主人がそう言うたら、おかげがその場でおかげを頂くです、それはおかげと言う場合ですよ、家のおかげを頂くもう家族中の者が本当に有難いね、恐れ入るねと親子が夫婦が言い合えるような、おかげを頂くためにもお互いが一家勢を揃えての信心にならないと、家のおかげにならないと言う事でございます、今日はね本当に広大無辺のおかげを頂いておる、その広大無辺のおかげをおかげと感知する、悟らして貰う分からせて貰うて有難いとお礼の言えれる、言うならばおかげをおかげと分からせて貰う、神のおかげをおかげとわからせて貰うから、愈々日勝り月勝り代勝りのおかげを受けられると言うのです。
おかげを軽う見るおかげをもうそれこそ、千万金の思いでおかげを実感出来れる、信心を頂きたいそこにはおかげがあると言う事になる、おかげをおかげとわかりきらん、おかげをおかげと神恩報謝の心の生活が出来ない、和楽美の生活が出来ない、またそのおかげをおかげと思うとるばってん、少しばっかりおかげと思うとる、実を言うたらね親先生のお話はオーバーだと言う人があったと言うのですが、私がおかげと思って話しとるのは氷山の一角だよと、実を言うたらその根の方のおかげと言うものは、どれしこお礼を言うたっちゃお礼の言い足らん、お話のオーバーどころじゃない、言う程のおかげの大きい事を思うから、こんな風に話さなければおられないと言う事にならなければいけん。
おかげをおかげと実感するそう言う心の状態が和楽美の心だと思います、同じ好きと言うてもこの位好きと言う人もある、もうそれこそこうする程好きな人もある。
孫がおじいちゃまどの位好きのと、そしたら首にしがみついてからこう、たったその位のと言うたらこうこうして好きだと言うわけです、もうそれこそじいさんたるものの嬉しいうしてこたえん、もうそれこそ神様のおかげとそれこそもう抱き締めるように、有難さで有難いと言うておるなら、それこそ神様は可愛いしてたまらんと言う働きがはじまらない筈がない。
私共はもちっとおかげの発掘と申しますか、本当におかげをおかげとわからして貰って、それだけのお礼の心が強くなれば強くなるだけ、おかげもまた大きいしかもそんな願った事が成就する、成就するだけじゃない、それとは反対に山焼けてと言う事もあるけれどもそれをおかげと分かった時、本当のおかげがおかげとわかるそして今、加西さんの例をとりましたけどこの様にも間違いのない働き、この様にも間違いのない親先生の働きであるから、その祈りの中に起きておる事であるからおかげに間違いないと、確信をもって有難いと言えるのです。
これ程間違いのない働きの下に起きて来る事であるからと頂かねばいけんです、そこで此処ではこれ程間違いのない働きと言うものを、皆さんに見て頂いたり聞いて頂いたり又は皆さん自信が受けておられる訳でございます、受けた時だけが一分一里間違いのないのじゃない、もういつもがそう言うおかげを頂いているんだと言う事、それこそ時間ギリギリにそれこそ上がり込むような、事でね神様のお働きの間違いなさに恐れい入ってしまう、信心とはその恐れい入ってしまう、その恐れい入った生活をさせて頂く事が信心だと思います、そう言うおかげを感ずる時に、本当におかげをおかげと感じている時だと思うですね。                                 どうぞ。